満蒙開拓青少年義勇軍

孫が学校から戦争体験の話を家の人から聞いて文にして来るように言われたらしい。

家で戦争体験の有る人はもういない。

父の戦争体験は聞いたことが無い。

ただ一度だけ従姉妹の父に話してたことを覚えている。

それは終戦後の満洲から日本に帰る話、それは壮絶九死に一生の話だった。

その話をしてたらカミさんが父の遺品の中から見つけたノート、満洲に渡って教員になるまでの話が克明に書かれてた。

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新聞で満蒙開拓の募集を見て幾日間考えて親兄弟にも相談せずに応募、茨城県の内原練習所に入所3ヶ月後、東満洲の寧安訓練所に入り猛特訓を受けたが風土病にかかり生死の境を彷徨う。何とか一年の訓練を終え翌春いよいよ永住の地と思った平陽に入植、この地は平坦で原生林が生い茂り豊かな川が流れ現地の住民も極めて温和で親切であったと書いている。

この自然に恵まれた理想の地こそ我が憧れの一生をかけ骨を埋める地と思ったらしい。現地の子らとも仲良く日本語を教えて歌を歌ったと。そこには植民地意識とか侵略等のお互いの意識は無く共に平和な村を構築しようとの一点で合意し協調してたと。

ところが父は体調は一向に回復せずに無為に過ごしてる時、隊長から呼ばれ今の体では開拓には向かない、開拓地教員養成所の受験をしないかと言われ。その時は夢破れ突き落とされた気がした。幾日間悩んでるとまた隊長に呼ばれ「教員の資格を取ったら再度この平陽の地に戻り子供たちの教育にあたってくれ」と言われ心が動いた。そして教員養成所の後新京(ハルビン)に在満師範学校が開設され入校。猛勉強したとある。

卒業後約束通り平陽の学校に行きたかったが、その時平陽には児童がいなく、辞令で七虎力(何処か分からない)在満国民学校に赴任。

ここの勤務は僅か一年余りだったが、父は生涯41年の教員生活で最も思い出深い一年で有ったと書いている。

一年後兵役につく時は総団員のぼりを上げて駅まで送ってくれた。

自分の知ってる父の教員生活は安泰そのものその安泰な公務員の暮らしに反感を持つことしかなかったが、今日これを読んで父に対する思いが変わった。

遅すぎるけど。

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