永遠の0

今日の午後から暇なので読もうと思ってたが
昨夜読んでしまった。
そんなわけで、今日の午後は巻末の児玉清さん(今年他界された)の解説を読んで自分なりの感想を書いてみようと思った。
この本は所謂ベストセラーになったらしい(本はよく読むがベストセラーとかには全く興味がないためそんなことも知らなかった。この前読んだ「白銀ジャック」もベストセラーだったらしい)
banちゃんに面白いと言われて読むことにした。
物語のゼロ戦の話や特攻隊の話は色々読んでるので、これはまた涙涙の話と覚悟して読んだ。
児玉清さんは「号泣するのを懸命に歯を喰いしばってこらえたがダメだった」と書いているが
不思議なことに最近泣き虫の自分は一度も涙が出なかった。
なぜだろう。
この話を読んで浅田次郎の「壬生義士伝」を思い出した。あの名前は忘れたが南部藩脱藩の主人公とこの物語の主人公宮部久蔵とが似てると言う想いがどんどん増した。
壬生義士伝で涙をいっぱい流したから、同じような行動にはもう涙が出なくなったのか?
違うような気がする。
その理由は、この物語に(自分の考えが間違ってるかも知れないが)何か違和感を感じるからではないかと思う。
そのひとつ、あの旧日本軍の中で本当に宮部久蔵のように自分の思いを勇気を持って言えた人間が存在しただろうかと思うことと、もし仮に存在したとしても終戦直前までそんな人間が教師としてまで軍に残れただろうか。もしそんな勇気のある人がいてもとっくに最前線に送られてしまうのではないかと思うこと。
もうひとつ、戦時中は特攻で死んだ人を軍神として褒め称えた、同じ郷里の人が戦後の民主主義の名のもとに一転して戦争犯罪人と罵ったと言う話。(実際の事は知らないので解らないが)本当に日本人はそんなに馬鹿だろうかと疑問に思うこと。
最後に決定的に違和感を感じたのは、
冒頭に有った、特攻とテロとの話(作者がそう言ってる訳ではないが)「特攻はテロと同じ」と言う表現。
個人的にはテロと言う言葉が嫌いだ、国家(今はアメリカ)がやる戦争は正義、それに対抗する集団が行うのはテロで悪と言う言葉と理解している。
そのテロと言われる戦争をやってる人間も同じ人間なのになぜ正義と悪なのか
戦争は一般人を攻撃するのではなく、テロは無差別に攻撃するから?
一般人も、軍人も同じ人間なんだ、軍人だけ殺していいと言うのは明らかにおかしい
両方とも家に帰れば普通の人間なんだ、どちらも殺していい訳が無い。
まあ、こういった話は個人的な見解なので反論もあると思う、ただ日本軍がやった特攻とイスラム教徒が現在やっている自爆攻撃、根本にあるものは同じと思う。
じゃあ何故「特攻はテロと同じ」と言う表現に違和感を感じるのかと言うと
私の言い方では「テロは特攻と同じ」なのである。
特攻の方が先、それと同時に「特攻もテロと同じ」と言う表現は両方を悪とした表現に感じる。
イスラム教徒で自爆攻撃をする人の本当の目的、気持ちは解らない、しかし特攻隊で死んだ人たちの遺書は沢山残っている。高校の頃に読んだ「聞けわだつみの声」なんかは今も忘れられない。


そしてこの本を読んで、改めて気がついたのはこの戦争に関係した人たちがどんどん少なくなって行くことだ。
自分の父もそうだった、戦争の話は聞いたことがないが終戦後地獄の様な修羅場を越えて帰国した話は一度だけある人に話してるのを横で聞いた。
ただ一人残っている叔父さんはまさに海軍のパイロットだった、終戦前に不時着怪我をして帰国したらしいが、それが無ければ間違いなく特攻に行ってただろうと言う。
父にもそうだったが、今生きている叔父さんにも戦争中何をしてたのかは何故か聞きにくい。
でも本当の戦争の事を知ってる人たちはどんどん亡くなって行く、勇気を出して聞いて後世に伝えなくてはいけないのではとも思うけど。