ルーツを探る

先日雪舞幹事長が、富山県の苗字の本を紹介してた
そして私の苗字の解説を教えてくれた。
その内容がこれ
富山県独特の名字で高岡市に集中している。以仁王とともに挙兵した源頼政の3男尚政が、越中国砺波郡筏村に逃れて帰農した子孫という。後略」


以前から祖先は清和源氏で平家と戦って負けこちらに逃れてきたと言うのは聞いてた。
その戦は保元(1156年)平治の乱(1160年)と勝手に解釈してたが、以仁王の乱は1180年 と言うことは保元平治の乱以降も京都にいて平家の下にいたと言うことになる。
後略の部分も知りたくて本を買ってきた。
その記述がこれ
「のち広上村(大門町)に移って筏井氏を称した。江戸時代は豪農であり、一族は高岡に移って政治家や歌人などを輩出した。」とある。政治家は知らないが歌人は古城公園に歌碑が有るのを知っている。

次に源尚政を調べて見たらこんな記事を見つけた。

「1112年生まれの源尚政改め筏井道右衛門から始まる26代筏井四郎右衛門に至るまでの800年程続く家系」

さらに筏井四郎右衛門を調べるとこれが出てきた。

測量家筏井満好と自然登水車
 射水郡西広上村筏井四郎右衛門満好は、源頼政の三男道右衛門尚政を祖に持つ筏井本家の二十六代目で、八男に生まれたものの、二十五代目の兄仁左衛門が病がちのため天明六年九月に肝煎役名代となり、寛政二年に跡を継ぎました(兄の子息四郎三郎を総領養子とする)。石黒信由に書籍を借りながら教えを受け、自身にも実子哲次郎満直を含め門弟がいます(以後代々算学を教える)。縄張役として藩内各地で検地に従事し、天保六年(1835年)十月二十四日に没しました。石黒信由の娘婿説もあります。
 さて満好は和算を用いて二種類の水車を構想しています。第一型は動力水車の回転軸にベルトコンベアを組み合わせたもので、数個の木箱「瓶」が取り付けられています。第二型は水車と上下二本のピストンと弁付シリンダーからなる押上ポンプで、永久機関の構想です。当時ヨーロッパでは競いあって開発中でした。

筏井という姓は高岡に結構ある。
現在、家の家系は5代先まで遡れる、5代先は江戸時代、筏井四郎右衛門満好が亡くなったのは1835年だから5代先の筏井又六はかなり年代が近い、せいぜい間に有ってももう1代位だろう。又六は村の重要な役をしてたらしいので多分この時期に分家したと思われる。
26代目の筏井四郎右衛門満好との繋がりが解れば、26代目までの家系図は残っているらしいので平安時代から現在までの家系が解ることになる。
これは凄いことだ。
ただ初代が(源尚政改め筏井道右衛門)と誰か解っただけでも凄い。